震災、手術、別れ、スナックママ再び工事現場へ

ママのつぶやき

こんにちは、建設現場で働くスナックママのAnanです。

飲食業40年の歴史を持つ会社に就職し、スナックの雇われママとなった私は、片道1時間かけてお店に通いました。往復2時間を有効に使おうと、通信大学の授業を録音して聞きながら通勤しました。

その生活が半年程続いたところで、やはり、単なる雇われでお店に出るだけではなく、お店に係わる全てのことがしたかったし、何よりもっと給料が欲しかったし、お店に通う往復2時間がとてももったいなく思えてきました。

全ては子供たちの将来のため、今の倍の給料を稼ぎたく、1年後には意を決してお店のある町に引っ越すことにしました。それが先決だと思ったからです。

昼間は会社の事務をさせてもらい、夜はお店に立ちました。

それから2年後、東日本大震災が襲い、お店は津波にのまれ跡形も無くなりました。

地震の直前、お店に準備に行こうと思っていたところで、来客があると連絡が来て、事務仕事をして留まり待っていました。

なんと、そのお客様がいらっしゃると同時に震度6強の地震が来たのです。もし、このお客様から連絡が無ければ、私は今存在していなかったかもしれません。

命を頂きました。

震災から1ヶ月半後には、被災地の中でも港から少し離れ、浸水1m程度で建物が残っていた物件で営業を再開しました。移転営業した中では一番早かったと思います。

常連のお客様に連絡し、場所は違えどいつもの面々が揃い、涙を流しながら抱き合って無事を喜んだ光景は今でも忘れられません。もちろん亡くなった方もたくさんいらっしゃいます。再会を喜びながら流した涙は、会えなくなった方への悲しみの涙も一緒に流れていたと思います。

そこから約3年後、毎年受けている健康診断で、初期の癌が見つかり、ものすごいショックを受けました。先生は「このままにしておけばどんどん進行します」と・・・昨年異常無しから1年で「癌」と言う言葉を聞くとは・・・正直、これは年齢的にも進行が早く、すぐに死んでしまうパターンだと思いました。普段は風邪も引かない、不調になることもない、健康だけが取り柄の人間だったので、大げさと思うかもしれませんが、終わりかも・・・と、毎晩眠れなかったことを覚えています。

すぐに手術をしてください!とお願いして1ヶ月後、スタッフさんには細かいことは告げず、休んだこともないお店を3日間だけお願いし、4日目には何事もなかったようにお店に出ました。

その後運よく生きています。また命を頂きました。

ここまで約7年間、素人の私にお店を任せて下さり、寝なくても働きたい私の希望を叶えて下さり、この道40年のノウハウを教えて下さったオーナーには感謝しかありませんでした。

しかし、この関係に亀裂が入りました。それは、私が死んでしまうから、次の人材を今のうちに探しておくと言うオーナーの言葉を聞いた時でした。

確かに40年の歴史、5店舗同時展開の実績があれば、これまで働いてきたスタッフの数は数百人になると思います。ですが、私は「ここは私の死に場所ではない!」と、オーナーの元から離れる決意をしました。

私の心は離れ、離れるためのきっかけを探すようになり、オーナーとの関係は悪化し、一瞬にして今まで一緒にお店で働いてきたスタッフさん達と決別。お店はスタッフさんあってこそ、家族のように思っていたスタッフさん達と、離れずに何とかならないものかとオーナーにもいくつか提案はしましたが、そんな都合よくいくはずはありませんでした。やはり、私がママとして切り盛りしてきたとは言え、ただの一社員でしかないことを痛感した出来事となりました。

ここで人生初めて無職となり、病院に通う生活を半年ほど経験しました。

一生懸命やってきたのにこんな結果になるとは。。。モヤモヤのあまり気が狂いそうでした。

助かったのは、癌の再発の疑いをかけられはしましたが、大事に至らなかったこと。保険屋さんの規定によれば、術後7年間再発しなければ完治と言えないとのことで、安心とはいかないものの、早く仕事をしなければとハローワークへ。私が今すぐできることは何かを考えました。

募集されていたのは、震災復興に伴う土木技術者が相当数。

私は、以前建設コンサルタント会社に居た経験を活かし、震災復興でお役に立てればと、大手ゼネコンさんにお世話になることに。

ここから土木業界での人生がまた始まったのでした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました